『重い障害を生きるということ』を読みました。

投稿者: | 2017年6月1日

『重い障害を生きるということ』を読みました。
著者は小児科医の高谷清先生。
去年の夏に起きた相模原の事件についてのインタビューを読んで
本も読んでみたいなと思っていました。

そのインタビューはこちら。
相模原障害者施設殺傷事件 第5回 高谷清さんインタビュー
http://www.nhk.or.jp/hearttv-blog/3400/252181.html

この本では、著者がびわこ学園で長年働き
心身に重い障がいを持った子どもたちと接してきて感じたことなどをまとめています。

 この節で、本人の母や他の人に対する様子を書いた。これを読んでいただくと、「けっこう反応があるのではないか」と思われるだろう。しかし実際の本人の姿は「なにもわかっていない」「なんの反応もない」「なんの変化や感情もない」と見える状態である。
 職員もなじんでくると、反応があるのがわかってくる。最初は、これは職員が慣れてきて本人の細やかな反応がわかってくるのであろうと思っていた。実はそうではなく、本人がなじんできた職員に対して「反応」するようになってきたというのが実際の様子であった。本人が安心する、安心して自分を出せる、表現するということであり、そのことによって、その職員は「本人が反応している」と感じる。もちろん、本人が意識的に「反応」しているのではなく、安心して「からだ」がそのように反応しているのであり、それは「こころ」も安心して自分を出しているという状態であろう。
 いつも世話をして身近にいる母に対しては、とくに「安心しあっている」「信頼しあっている」関係にあり、その関係は、生きていることが「気持ちよい」という状態ではないだろうか。そして、その関係が母以外の人とも存在するようになるということであろう。本人と職員など他の人とも「こころ」が反応しあっている、つながってきたと言える。こうした状態を母は「わかっている」と表現しているのであろう。ここに「人間の関係的存在」があると思うのである。
(『重い障害を生きるということ』p93-94)

【生きていることが「気持ち良い」という状態】ということば。
それは本文中の次の箇所にもつながっています。

外面的、内面的に「快」の状態にあるという感覚的状態は、外部環境を認識・判断したり、自分で移動したりすることができない人たちにとっては、基本的な「生きる喜び」であると考えられる。もちろんそれは、重症心身障害でない他の障害のある人、さらに障害のある・なしにかかわらず、だれにとっても基本的に大事なのは言うまでもない。
(『重い障害を生きるということ』p61)

心身に重い障がいのある人たちにとっては
「快」であるということが基本的な生きる喜びだと考えられます。
そして「快」だと思われる反応は、人と人との関係の中から生まれてくる。
こう理解して、もやもやしていたものがひとつ整理できたように思います。

気持ちよい状態にあることは、well-beingとして、ひとつの幸せのかたちだと思います。
そう思うと、幸せであるってことは、病気や障がいのあるなしには関係なくて
誰もがどんな状況であっても感じられるものなのかなと。
このあたりはべてるの家の考え方とも共通すると思います。

高谷清先生のほかの著書や糸賀一雄先生の本も読んでみたいです。


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