白隠禅師坐禅和讃(はくいんぜんじざぜんわさん)

投稿者: | 2014年8月6日

「白隠禅師坐禅和讃(はくいんぜんじざぜんわさん)」。
江戸時代の禅僧、白隠慧鶴(はくいんえかく)によって作られたお経です。
「坐禅和讃」の別名が「白隠禅師坐禅和讃」というのだそうです。

わたしがはじめて「坐禅和讃」を知ったのは
鍼灸の勉強会で、坐禅に参加したときのこと。
坐禅のさいごに、みなさんと「坐禅和讃」を読んだことがきっかけでした。

意味がわからないまま復唱していたのですが
家に帰って調べてみると、
それが「白隠禅師坐禅和讃」だったことを知りました。

 
全文はこちら(書き下し文です)。

「白隠禅師坐禅和讃」

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず
かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり 
 

いま、ポチッとパソコンの画面を消したくなった方もいるのでは・・・。
みんな、消しちゃったかな・・・。

このお経の何が好きかといいますと、
おわりの部分です。

 

お経のおわり部分の意訳。
web智光院のホームページから引用させていただきます。

真実を、遠く離れたところに求める必要はありません。求めるどころか、おのずから目の前に広がっているのです。苦しみは消滅し、無念無相の世界が、静かなる大海のように広がっているのです。
私たちの日常そのものが浄土であり、日々が好日にして、幸せな毎日です。眼で見ること、耳で聞き取ること、身体で感じること、その全てが、仏祖と何ら変わらない生活であり、この自分自身こそが「仏心」そのものなのです。

 

日常そのものが浄土。
日々が好日にして、幸せな毎日。

そんなわけないじゃん?!
と思いましたか??

まあ、実際にそんなわけはないですよね。
多かれ少なかれ、人には苦労がありますし、
日々、なんらかの悩みもありますし。

「毎日幸せ!」「いつでもどこでも、極楽!」
なんて人は数少ないでしょう。
いるかもしれないけど・・・。
 

これは
「いま」と「ここ」に満足することだと
勝手に解釈しています。
どんな状況にあっても
考え方しだいでは、ラクになれる。
「いま」と「ここ」をよくするのは自分のとらえ方しだい
といったところでしょうか。

「いつか」「どこか」を目指すのではなくて
「いま」「ここ」を大事にする。
 

さいごに
迷いを断ち切るために必要なこと。
こちらも「坐禅和讃」に書いてあります。
自分のことばじゃなくてゴメンナサイ。

またまたweb智光院のホームページから引用しますね。

では、迷いを断ち切り、禅定力を養うためには、どうしたらよいのかを考えてみましょう。

1つめは、「目で見えるものの、姿・形にとらわれないようにする」ということです。

2つめは、「心で感じたこと、一念一念を悪く考えないようにする」ということです。

 
わたしのような凡人にはまだまだむずかしい。
でも凡人で、悟りきることができないから
よりいっそう「坐禅和讃」がこころにひびくのかなと思います。
 
「坐禅和讃」の意訳の全文を読みたい方はこちら。
web智光院
http://members.jcom.home.ne.jp/webchikoin/zazenwasan_ver2.htm